ABCD学院 メールマガジン 2015年6月号

Communication: Information
3年間継続して掲載している「榎本武揚の生涯と時代」の全体の総括編

今月の主題は「栄一が如何にしてフランスへ行き、パリを中心として、見聞し、何を学びつつあったか」である。

 

(1)横浜港出港とそれ以降の旅:

1867111日:一行はフランス郵船「アルへ―号」に乗り込み、横浜港を出港した。

当然ながら、栄一にとって初めての外遊である。これを記録として「航西日記」として記録している。

この後、上海、サイゴン、セイロン、スエズに上陸し、列車に乗りカイロを経由してアレキサンドリアに向かった。その後、陸路を取った。(栄一が書いた「航西日誌」に途中経過も詳しく述べられているが省略する。)

それまで、栄一は攘夷論を主張し、「外国には全て禽獣夷狄であると軽蔑してきたが、この時は早く外国語を習って外国語の書物を読めるようにならなければいかん」と考え、また、京都で、兵役の募集で働いた折、「兵制、医学や船舶、器械等は到底外国にはかなわぬという考えが起り、あちらの良い所は全て取りたい」と考えた。そこで、船中では仏語の稽古を始めていた。また、文法書や授業をも受けた。

 

(2)マルセイユ到着とその後

翌年・1868年219日:一行はマルセイユに到着した。その後、首都・パリへ向かった。

パリ到着後、「パリ万博へ正式に参加すること」が目的であるので、皇帝・ナポレオIII世に国書を送呈し、返書を受け取った。これら表向きの行事は全て外国奉行が行い、恙無く終了した。ここでは、栄一は昭武の世話と、随行団各人への給与を支給したり、日本への交信を行った。

 

3.2 ナポレオンIII世とパリ万博

ナポレオンⅢ世はサンシモン思想に共鳴し、政権を得ると、シェバリエ教授と同思想の銀行家ぺレールを政権のブレーンとした。

18636月:ナポレオンIII世は「1867年にパリ万博を開催する」勅令を発した。

これは1862年ロンドン万博でメダルを受賞したフランスの参加者の要請に従ったものであった。

ナポレオンIII世の万博の意図:

全世界にフランスの威光を広め、確立しようと考え、「全世界に万有、万国(ユニバーサル)の中心であるフランスから発する「幸福と進歩」を無理(強制的でなく自然に)せずに受け入れられるような仕組みと考えた。 即ち、これこそがサンシモン的精神に基づくものであった。

(これによる支配欲を満足させる事でもあったが、この支配欲は利己的ではなく利他的なもの(他に恩恵を与えようとする)であった。)

 

1865年幕府は万博の意義を理解していた。そして、フランス公使・ロッシュの要請を受け、小栗上野介が推進者として任命された。

 

(1) パリ万博に参加して

1)パリ万博への参加とナポレオンIII世の演説を聞いて

1867年パリ万博にて開会式に参加した栄一はナポレオンIII世の演説を聞いて以下の反応を日記に記した。

2)万博の感想:

 大凡、人知の進歩を図るには種々の方法があるが、下記の理由で万博は最も効果的であると述べている。

・書物による方法や、耳を持って聞いて情報を得て、研究し発展させるのも良い。

・最も優れた方法は、「百聞は一見にしかず」と言われる通り、実物を見て手に触れ、知ることは最も深く理解し得る方法である。

この意味では万博は最も意義ある企画であり、また、万博は、世界各国の風俗習慣を一堂に展示することで、世界的知識を得て、それぞれに向上させることが出来るものである。

3)ナポレオンIII世の演説の栄一の感想

「ナポレオンの気炎は思い切ったものであるが、少々うぬぼれが過ぎる位であった。」と述べている。

 

(2)万博後のフランス政府の対応の変化とその原因

慶喜が将軍に就任して後、ロッシュは徳川絶対主義政権を建設のため、徹底した軍備改革を実行しようとした。そして、その資金をフランス輸出入会社の親会社・ソシエテ・ジェラ―ル銀行から借款を成立させた。また、幕府の権力を確立するため下記の事項を計画した。

1)新軍隊はフランス製武器で装備する。フランス教官が訓練を行う。

この見返りとして、日本の資源は仏の技術により開発され、貿易はソシエテ・ジェラ―ルの支配で行われるとした。

2)幕府がフランスへ発注した武器は下記である。

・大砲:90門 ・元込め式小銃:25千丁  ・大砲隊:1250名

・騎兵隊:500名  ・歩兵:2万5千名

これらが装備されると薩長は対抗出来なくなる。またフランスとの貿易は英国を上回ることとなる。

しかし、ロッシュのこの案(幕府援助政策を支持した仏外相・ドル―アン・ドウ・リウスは1877年辞職する。後任はドウ・ムスティエがなり、彼は幕府の安定を信じなかった。

この理由は下記である。

①近い将来、有力大名が結集して反乱を起すとの情報を得ていた。

②フランスが対日貿易を独占することで、競争相手・英国の非難を受ける恐れがある。従って、積極的な日本への援助拡大は見合すべきとした。

上記理由により、これまでの対日政策は大きく変わることとなった。

また、これには仏政府自体の状況変化もある。

・メキシコ干渉、ルクセンブルク領有の野心が失敗してプロシャと開戦の機運が濃くなり、国内では、反対勢力が強まってきた。

 

著者コメント:

当方の別の著書「真のラスト・サムライー榎本武揚」」では、幕府は仏大使・ロッシュの説得で仏式軍隊の教練を受け入れつつ、軍備も整備されつつあった。しかし、慶喜は薩長に対し、反抗することを諦めた。勝海舟の意見もあり、「日本を二つに分裂させる事は良くない(中国のアヘン戦争の二の舞とならないよう)と判断した」と当方は理解していた。一方、フランスも外務大臣が更迭され大きな変化があったことが知らされた。ロッシュが何を言おうと、ナポレオンIII世も幕府の煮え切らない態度と英国の動きに、どのように対応すべきかを考えたにお違いない。


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