ABCD学院 メールマガジン 2016年2月号

Communication: Information
3年間継続して掲載している「榎本武揚の生涯と時代」の全体の総括編

この後、間もなく、日本からの指図により、外国方の人々は全て帰国した。従って、ベルゴルイズの仮御領には、昭武、小出(仏語の助教の少年)、菊地、三輪と渋沢の計5名が残った。

4月9日(西暦530日)幕府からの命令書が届いた。内容は「昭武は留学を継続、その他、各国への留学生は帰国せよ」とあった。

栄一は翌10日仏、英、ロ、蘭の4カ国の留学生に手紙を送り、帰国を促した。

英国への留学性:川路太郎、中村正直、外山正一、箕作金吾(みつくり)、菊地大麓、林董(ただす) 等14

オランダ:林研海、緒方洪哉、松本圭太郎  ロシア:4

フランス:6名  結果、総勢24名がパリに来た。ただし、私費で留学する者は滞在を続けた。

 

(2)英国への留学生と栄一との対立

英国留学生は初め、互いに相談し、栄一に旅費の融通を受けずに帰国することとしていた。旅費は英国政府に立替えてもらい、荷為替付で帰るとした。この件で、栄一に了解を得るため、代表して川路がパリに来て報告した。栄一はこの申し出に同意しなかった。

栄一の考え、「いやしくも、人間が荷為替付で荷物扱いで帰るとは何事だ!喜望峰回りの貨物帆船で帰るのは勝手だが、帰国した後、徳川家で立替金の支払いができぬ時はどうするつもりだ!イギリス政府が支払いを新政府に請求してみろ、いい恥さらしだ!私はそんなことに同意しない。他国の(他藩)留学生と共に帰れ! 英国政府には私が話して、取り消すようにしよう。」と述べた。

栄一は川路と共にロンドンへ行き、留学生監督・ロイドを通じ取り消した。そして、全員をパリへ連れて来た。

ベルゴレイスの仮御館に集合した留学生24名は出発まで45日間、館に留めることとなった。栄一は彼ら24名を汽船が出るまで広間と山高の宿舎に分宿させた。広間に留められた留学生は絨毯の上に寝て(ベットもなく)いたので、留学生の林が代表となり、栄一に苦情を申し入れた。

曰く「 ( 前略 )多人数を一室に入れ、粗食を当てがう。全く豚の如き扱いだ。人間並みに扱ってもらわねば気が納まらぬ。」と。

栄一は怒り心頭に発し、太刀を膝元に引きよせ、眼光鋭く、声高に述べた。「一体、君たちは、今、国元が非常な大難で苦しんでいるのをどう思っているのだ! 幕府は倒れ、政府は変わっているのだ。その事情が分からぬか?  (中略) 幕府から一文も出ないのだ。荷為替で、帆船で旅をするところを客船として帰国できるのだ。その路銀は全て民部公子が支払ってくださる。それを知った上で、宿舎の不便など言えた義理か!・・・。 俺が何時豚のように扱ったか? 荷物で帰国するところを

人間としてやったのに! 何の文句があるか! 気に入らねば出ていくがよい! 留学生らしく筋の通った話し合いができないもなら、腕ずくで来れば相手してやる。」と。 これに、林は震え上がった。そして言葉を返すことができず、引き下がった。

留学生達は428日パリを離れ、帰国した。

 

著者コメント

当時、日本人の留学生は少なく、それだけに優秀で、周りも大切に育て、尊重してきたであろう。

従って、自分本位に物事を考え、本国が危機の時も、理屈では理解していても、危機意識はなく、広間に住まわせられ、「豚のように扱われた。」と文句を言い、栄一にしっかりと叱られた。よい経験となったであろう。さすがに、栄一も芝居じみた態度(剣を引きよせ、声高に)でしかりつけた。多分これまで叱られたことなどない連中であったろうから驚いたに違いない。良い薬となったであろう。

 

(3)ロシュと栄一とのやり取り

ロシュが仮御館に訪ねてきた。民部公子と栄一を前にして述べたこと。

「日本は御一新と言うことになったが、薩長が力を合わせたからあのようなこととなった。どういう考えかわからないが、大君が隠退なさったのはあまりに気弱であった。あれ程までにせずに、もう少し主張を強くなされば、決してあのように追い込まれずに済んだはずだ・・・。残念である。

このまま、日本が無事に治まるとは考えられない。この先、色々な騒動が起こるに違いない。今、公子が帰国されても、何も益にならない。しばらくはフランスに止まり、軍制や政治について十分に会得され、フランス政府に信用される人物になって、ご帰国なされば、必ず、ご自身の利益となりましょう。情勢によっては公子が政府の要職に迎られることがあるかも知れません。慌てて、帰国されるのは得策とは言えません。」

この時、ヴィレットも同席しており、今後の昭武の成長に期待するという熱意を込めロッシュと共に語った。その後、ロッシュは次第に遠退き、仮御館を訪ねることが少なくなった。

栄一は仏政府の内情が変化したものと考えた。すなわち、ナポレオンIII世がロシュの意見を採用し、幕府を引き続き応援する考えを失ったと考えた。

また、ロッシュは幕府が薩長を駆逐する軍事行動に出ることを期待し、パリの昭武を利用して日本に向かい、何らかの政治行動を起こす計画を考えていたようであった。しかし、パリに帰ると皇帝がロッシュの要望にあまり興味を示さなかったため、昭武との連絡も減少してきたと考えた。

著者コメント:

ロッシュの軍事力中心の考えからすると、幕府の行動は理解できないのも、無理もない。「日本を混乱させたくない」との慶喜の考えを素直に受け取れば、理解されるが、折角、フランスが支援するというものを辞退するのかと考え、慶喜がだめなら昭武に話したいと接触してきたものと思われる。

彼の心情がこの会話によく出ている。ただし、昭武へのアドバイス「フランスに残って勉強を勧めた」点は、考えさせるものがある。著者も賛成である。折角の機会を無駄にしないことが大切で、これは慶喜の考えでもあった。結果論から言うと、これは実現されなかった。残念である。

お問い合わせはこちら

 

ページトップへ