ABCD学院 メールマガジン 2016年4月号

Communication: Information
3年間継続して掲載している「榎本武揚の生涯と時代」の全体の総括編

4.昭武一行の帰国

栄一は実業について経験を深めるつもりで、昭武と共に、フランスに留まるつもりであったが、昭武が、水戸藩を相続することとなり、至急帰国せねばならなくなった。栄一は大いに落胆した。

830日:昭武、ヴィレット、栄一、菊池、井坂、(小使)アンリは仮御館で、この朝、最後の朝食を取り、帰国の途に出発した。

 オーステルリック駅では、ヘラルド以下フランス政府関係者、残留日本人留学生が見送った。

昭武一行はボルドーで一泊し、

91日:午後、ナポレオンIII世の別荘に立ち寄り、別れの挨拶をした。この時、昭武の供をしたのは栄一とヴィレット大佐であった。昭武は挨拶後、幕府からの書状を渡した。

このとき、ナポレオンIII世の皇后にも会った。

栄一の記憶から彼女の挨拶:「御国の大変で、途中で帰国されるのは残念だが、是非もない。幾末、頼もしいご成人を遠くから祈ります。」と握手しつつ親切な挨拶をされた。(昭武と皇太子とは同年で、皇后にとって情が移ったのであろう。その皇太子は玄関まで送ってきた。しかし、その後、皇太子はインドの戦いで戦死した。

1868年(慶応4年)94日(西暦1019日):昭武一行はベリーズ号でマルセイユを出港した。

 

 

2章  徳川家からの飛翔

1.帰国後の活動、経済・財政改革

1.1 日本への帰京(帰国直後・友人達との歓談 )

186894日:フランスを栄一達は、ぺリュース号で出港し、113日に横浜に到着した。そして、午後4時半に横浜港に上陸した。次の状況に巻き込まれた。

1)到着して直ぐ、新政府の官吏から質問攻めに合い入国の手続きが遅れた。

(今日で言えば、マスコミに追い駆けられる状況であったろうし、当然である)

2)日本が新政府の時代となり、また江戸が東京と言われるようになっていたことは、彼らも知っていたことであったが、官吏からの質問では「栄一等が幕臣であった」と言うだけで、訳もなく疑われ、侮辱された。世の中が一変したことを肌で感じ、思い知らされた。

3)駿府・徳川家から昭武のお迎えの使者:杉浦愛蔵、浜中、保科、塩田、川路等水戸藩とヨーロッパ留学生が来ていた。昭武は午後8時半頃、杉浦愛蔵が御供として神奈川に向かい、その夜の内に、水戸藩邸に入った。

4)栄一は、翌日の荷物受け取りのため、横浜の宿で一泊する。その夜は田辺、川路等と夜を徹して欧州の思い出を語り合った。

5)この時、話の中に従兄の喜作が榎本武揚、大鳥圭介、松平太郎等と箱館戦争に参加していることを知った。

 

1.2 榎本武揚等の箱館戦争について(栄一の認識と仲間との意見交換)

当時は横浜でも噂に、この戦争について伝え聞かれていたに違いない。情報は以下のようなものであった。:

「榎本等は箱館に新国家を打ちたて、軍備を整えて後、艦隊を東京や大阪に向かわせ、新政府の基盤を動揺させる計画を立てている。」

これに対して栄一は友人等と議論した。

栄一:(言下に)「彼等は失敗する。」「そのようなやり方では到底、新政府を打倒する望みはなかろう、そんな軍略では箱館の旧幕臣は居ながらにして滅亡を待っている様なもので、気の毒千万だ。」

田辺:「しかし、箱館には大艦隊がある上に、多くの陸兵が集まっている。未だ、諸藩の動向も明らかでない今、榎本等の艦隊が働けば、国内は乱れるに違いなかろう。」

栄一:さらに否定する。「おれは漢学の史書を読み漁ったが、昔から亡国の遺臣が力を合わせ、恢復を図ったことはしばしばあるが、やり遂げた例は見当たらない。迅雷が耳を拭う暇もなく、鳴り渡る様に、にわかに敵の本拠にその嘘を突く奇襲を仕かけ、敵を狼狽させて、巧みに兵を後退させれば万一の僥倖を得ることもできるであろう。しかし、榎本等の軍略では、全く成功はおぼつかない。」

川路:(反発して曰く)「しかし、新政府の艦隊は富士山丸と甲鉄艦の他はめぼしい軍艦がなく、操艦に熟練した士官も少ないため、会戦すれば一挙に全滅されるのではないか?」

栄一「今聞いた所でも、箱館に集まる人々は君臣のたいぎを持たぬ鵜合の衆ではないか、榎本や松平太郎がどれほどの傑物であろうとも、鵜合の衆を非常の際において統御することは難しい。鵜合の衆を鍛え上げ、しかる後に天下を伺うというような持重策を取れば、その間に新政府も足元を固めるであろう。箱館に人々に海軍の力があるならば、今の内に、突然、京阪を襲撃し、東京、横浜を攻めるなど、ここかしこに出没して、政府の軍勢に先手を打って攻めかければ、諸藩の兵気も防戦に疲れ、人心は自ら乱れることになりかねない、

その様に機先を制して戦う力を持ちながら蝦夷に新政府を打ち立てるなどと、空しく坐臥してぐずついておれば自ら敗北を招くもので、拙策と言わざるを得ない。」と言う。

以上の様に箱館の様子を知った栄一は早速、喜作への手紙を書いて、横浜の友人に託した。手紙の内容は下記である。

「貴兄との久々に会うのを楽しみにして帰国したが箱館に行ったと聞き、失望した。私の考えでは『貴兄の形勢は非なり』と見るので、その意見を榎本氏へ伝えられたい。また、今後の成り行きでは、もはや互いに生前に会うことは望み難いであろうから、この上は潔く戦死を遂げられるよう覚悟されたい」

 

著者コメント:(「榎本武揚」の著者としてはコメントせざるを得ない。

箱館戦争についての栄一の考えは分かった。結果論から言えばその通りといわざるを得ない。しかし、多少ずれた点もありコメントする。

(1)榎本の戦略:旧徳川家臣を究合して新政府を樹立することを目指していた。

ただし、日本国の一部としてであり、別々の国を志向しない。

新政府に、このことを願い出たが許可されず、止むなく戦うこととなった。

(2)しかし、所詮、3000人の兵力であり、箱館市民を見方につけて戦わねば、いずれ来る新政府軍は十分な兵力を用いて攻めてくるであろうことは榎本も分かっていた。

(3)基本的戦略は、海軍力で攻めてきた敵をたたくことを考えたに違いない。

(4)しかし、軍艦は8隻を所有していたが、最新鋭の軍艦・開陽丸は嵐で沈没していた。

(5)米国からの輸入した軍艦・甲鉄艦は、この時は既に、新政府側が入手していた。

この軍艦を入手するため、外交的手段で中立を保つよう交渉したりしたが、結局は榎本側が形勢不利と見て、米国は新政府に引き渡すこととなった。そして、これを使って箱館hげ攻める途中、宮古湾に立ち寄ったところを、ゲリラ攻撃を仕掛けたが失敗していた。決して座死するつもりではなかったと言える。またこのことで、新政府側に緊張をもたらしたことはあろう。しかし、自らの軍艦を2隻失い、犠牲が多く、この作戦は失敗であり、失敗は致命的であった。

(6)箱館市民は税金を取られるため、見方しなかったと言える。従って、わずか半年間を持ちこたえられなかったと言える。

(7)榎本軍は「鵜合の衆」と言えるか、否か?:榎本を信頼し、蝦夷共和国など、新規の政策を実施して、まとめた力を立派と言える。

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