ABCD学院 メールマガジン 2017年3月号

Communication: Information
英語は使わなくちゃ!

第4章 実事業の創立
1.概要
設立から援助した会社は約500社に昇る。紙面の関係上、直接、経営をした
企業を下記に分け紹介する。
・資本主義化に関わるインフラの企業:
金融業:銀行、各種取引所(含む証券取引所)
保険業:火災、生命保険
陸・海運業:鉄道、地下鉄、汽船、築港
土木、水道、電気、燃料:ガス、石炭、石油
・外国製品に替わる国産製品の製造会社:
軽工業:綿紡績、絹織物、毛織物
重工業用原材料:製鉄、鉄鋼
化学品:肥料、薬品
重工業:造船、汽車製造
・消費物品(含む食品):ビール、製糖、乳製品
・流通、サービス業:商社、ホテル、不動産、広告、デパート、通信、新聞、印

上記の内、直接関わる代表的な会社を紹介する。
栄一は一企業の経営者としては必ずしも卓越した経営者とは言えないが、日本の
産業全体の総合プレンナーであり、オーガナイザーと言える。
1873年(明治6年):栄一は大蔵省を退職する。

2.2  軽工業
(1) 抄紙会社
明治5年:当時、政府発行の紙幣製造はドイツに発注し、銀行紙幣、証券は米国
に発注していた。これ以前は、国内で製造していたが、粗悪で、にせ札が横行し
ており、この当時、栄一は財務省・紙幣頭であり、大蔵大輔・井上馨と協議し、
外国へ発注することを建議した。
また、この当時、三井組、小野組、島田組の三大富商が各々独自に事業を始めよ
うとしていた。そこで、栄一は「事業を始めるには独自では無理であり、西洋式
に合本組織によるべき」とした。この提案によって3者は提携し、発起人として
大蔵省に会社創立を出願した。
・会社名:抄紙会社
・出資者:三井八郎右衛門、小野善右衛門、島田八郎左衛門、渋沢才三郎(栄一
の妹婿)
・資本金:15万円
この当時、会社の運営システムはできておらず、また、西洋の機械を輸入し、こ
れを運転する前例はなかった。従って、全てが暗中模索であった。
明治6年2月:会社創立の認可が下りた。同時に、製紙、印刷、製本の機械を英国
・イーストン・アンダーソン社に発注した。そして、機械は入荷したが、島田組、
小野組が倒産し、資本金の大半を三井組が引き受けた。この様に会社は設立した
が存亡の危機であった。
明治7年1月:栄一は抄紙会社の株主総会で社務を委任された後、3月に景締社*
を傘下に加えた。これは、紙を製造しても印刷、製本ができなければ、出版まで
の完全な営業ができないためである。(これは栄一の考え方であるが、実際には、
抄紙が立派にできれば、それ以降は自然に発展できることもある。)
 *注)景締社:横浜にある印刷、製本業者
同年5月:英国からノランス・チースメン(機械技師)が来日すうr。彼は26歳
で、エジプトの製紙会社での勤務経験があった。下記の条件で工場建設の技師と
して雇った。また、別に製紙技師としてトーマス・ポットムリ―を雇った。(こ
の時日本人技師の給与:5円)
*雇用条件:(チースメン):月給265円、(チースメン):3000円
同年11月:機械購入代金として$10万8070(日本円:   )を支払った。
会社はこれを支払うため、増資し、25万円とした。
*チースメンの役割:工場敷地を決定し、王子にレンガ作りの社屋を設計した。
明治8年6月:社屋が完成した。
同時期、機械の試運転が開始となる。外国人技師:ポットムリ―の指揮で運転開
始するも、紙は出てこない。少しずつ出てくるが、また直ぐ途切れる。日によっ
て出たり、出なかったりで、栄一は隔日に出張して、見学するも製品ができない
ので、詰問する。以下のやり取り:
技師曰く「機械も、原料も自分の技術も完全であるが、職工が悪い」と。栄一は
「いい加減なことを言うな!」と一喝する。「君の技術が拙劣なためであろう」
と叱る。
技師は自分の非を認め、「どうか1週間待ってくれ!1週間たっても具合が悪け
れば退職します。」と。しかし、彼の懸命な努力で、少しずつ紙がでてくるも、
とても製品とは言えない。
明治8年9月:漸く、紙らしいものが作り出せる様になった。しかし製品は粗末
な厚紙でしかない。この様な状況ではとても経費を賄える状況ではなく、赤字は
その年末で4万円となった。栄一は危機感を持ち、同時に窮地に立っていた。も
しこのままであれば、廃絶となりかねない。そして、今後新たな産業は育たなく
なるであろうと危惧した。
一方、需要は必ず、増大するとして、ポットムリ―を励まし、製造を続けた。
明治9年10月:その後、悪戦苦闘の末、また懸命に努力し、初めて上質の白紙が
生産できるようになった。
同年12月:新聞用紙の生産試験を行い、近日中に、開業式を行うまでに漕ぎつけ
た。

上記失敗の原因について栄一の甥・大川平三郎は以下に述べている。
なお、平三郎は抄紙会社創業時から栄一と共に事業経営を行ってきた人物である。
そして、3年間、悪戦苦闘の末、色々応急処置を講じながら、彼は製紙機械の専
門家となった。
*失敗の第1歩:製紙事業に精通していない抄紙会社が、この分野の素人のウォ
ッシュ商会に製紙機械を発注したこと。
*失敗の第2歩:同商会は本機械を制作を未経験な機械製造会社に注文していた。
機械製造会社はまた絵図面のみに頼り、製造したものであり、初めから、満足に
稼働できるものではないと悟った。
これは取りも直さず、英国商会が日本をなめていたと言える。もし当時、製紙機
械専門工場を持つマンチェスター社に発注すれば問題は起こらなかったであろう。

明治9年:紙幣寮から注文を受け、地券紙を漉くこととなった。しかし、これだ
けでは、利益に繋がらない。当時、王子工場の1日の生産高は3千~4千ポンドで
あり、これでも売れ残っていた。
明治10年:そこで、大川は外国人技師を罷免してはどうかと谷支配人に持ちかけ
罷免した。
明治10年2月:西南戦争が起こる。お陰で、新聞紙(読売、東京日日新聞)が大
いに売れるようになった。なお当時原料に魚網を使っていた。千葉や大阪、堺に
買い集めたが限界があり、外国では原料に麦わらを使うという情報を得て、大川
は米国へ製紙会社・モンラギュ・ペーパーカンパニー(コネチカット州)に雇わ
れ1年半働き、麦わらで紙を漉く技術を習得し、帰国した。
帰国後、現有機械を全て解体し、一新した。これにより2,3か月で1日の生産量
は1万2千ポンドに急増した。
この製紙会社はやがて、原料を麦わらから、木材パルプへ変更し、名実共に、大
企業となった。
著者コメント:
当時雇われた外国人技師は、製紙機械は素人であるにも関わらず、会社に雇われ
働いた。栄一にしても、途中素人とわかっても、代わりの技師が見当たらず、励
ましながら、序々に改善してきた。途中、大川が素人ながら、研究熱心で、情
報をあつめ、機械以前の原料から改善し、最後には現在使用されているパルプを
基本とするようになった。要は、機械技師は与えられた条件で改善できるが、そ
れ以前の改良は思いよらない。むしろ同じ素人でも、責任感のある人物の任せる
方が長い目で見て良いと言える。

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