ABCD学院 メールマガジン 2017年4月号

Communication: Information
英語は使わなくちゃ!

第4章 実事業の創立
1.概要
 設立から援助した会社は約500社に昇る。紙面の関係上、直接、経営をした
企業を下記に分け紹介する。
・資本主義化に関わるインフラの企業:
金融業:銀行、各種取引所(含む証券取引所)
保険業:火災、生命保険
陸・海運業:鉄道、地下鉄、汽船、築港
 土木、水道、電気、燃料:ガス、石炭、石油
・外国製品に替わる国産製品の製造会社:
 軽工業:綿紡績、絹織物、毛織物
 重工業用原材料:製鉄、鉄鋼
 化学品:肥料、薬品
 重工業:造船、汽車製造
・消費物品(含む食品):ビール、製糖、乳製品
・流通,サービス業:商社、ホテル、不動産、広告、デパート、通信、新聞、印
 刷
上記の内、直接関わった代表的な会社を紹介する。
栄一は一企業の経営者としては必ずしも卓越した経営者とは言えないが、日本の
産業全体の総合プレンナーであり、オーガナイザーと言える。

1873年(明治6年):栄一は大蔵省を退職する。
その後、前回までに述べた様に、軽工業を立ち上げる。

今月は先月に続いて今回は以下に、重工業について述べます。

2.3 重工業(造船業)の育成
(1) 平野の生い立ち
1846年(弘化3年):幕臣・矢次豊三郎の三男として長崎引地町に生まれる。
3歳で、父を失ない、艱難の末、16歳で、幕府・長崎製鉄所の機械手(技術者)
となる。
1862年:その後、さらに、汽船機関手に進む、長崎と江戸の間をしばしば往復する。
この頃から造船、海運の志を抱いていた。
1868年(明治2年):長崎立神にドライ・ドックを建造することを計画し、つい
で、海運業を興そうと民部大丞・井上の同意を得た。井上は平野を長崎製鉄所所
長兼小菅造船所長に任命した。
1869年(明治3年):政府は工部省を新設し、製鉄所と船渠をその管轄下に置い
たので、平野は船渠技師長に就任を勧められたが、辞退した。(彼は造船を官業
として発展させるつもりがないと考えたためである。)

その後、恩師・本木昌造(1824~1875)の後を継ぎ、長崎に、活版所を主宰する。
1870年(明治4年)11月:東京築地に移転する。(後に東京活版所となる)
当初は、需要が少なく、経営困難になったが、平野は日本の活字鋳造の道を広め
るため努力を続けた。
一方、平野は造船創始の志を捨てず、チャンスを待っていた。
そこに、以下の絶好の機会が訪れた。
1875年(明治9年):海軍省が石川島工場を廃止することとなった。
平野は直ちに、施設の貸与を受け、独力で、民間初の西洋式造船所を建設した。

栄一は平野の人柄、才能を嘱目して財政援助を行った。

(2) 東京石川島造船所の創建
この会社を創業した平野富二*は1846年、長崎に生まれ、16歳で幕府直轄の長崎
製鉄所で、機械手(技師)となって働いていた、さらに汽船機関手(機関士)に
なった。そして東京と長崎間をしばしば往復していた。これらの経験から海運と
造船に興味を持った。前項で、彼の略歴を詳しく述べているので、ここでは省略する。
1869年(明治3年):政府は工部省を新設し、製鉄所とドックをその管轄下に置
いた。
平野は技師長になることを勧められたが、断った。かれは「造船は民間として発
展するべき」と考えたからである。これは後に澁澤が述べるように、彼には一つ
筋が通っている。
ともかく、彼は造船業創始の志を捨てなかった。以降は栄一とのやり取りを述べ
る。
1875年(明治9年)海軍省が石川島工場を廃止することとした
これを聞いた平野は直ちに、同施設の貸与を受け、独力で民間初の西洋式造船所
を建設した。
栄一は平野の人柄、才能に注目して、財政援助を行った。以下は「石川島造船所
50年史」からの抜粋である。
造船業は多額の設備資金が長期に固定化する特質がある。平野は旺盛な事業欲を
持ち、事業を多角化し、設備の拡充に意欲的であった。このため、資金需要が旺
盛で、個人資産では経営維持には難しかった。そこで、当時、第一国立銀行・頭
取であった渋沢に造船事業の重要性を説き、資金援助を得ることができた。しか
し、渋沢と言えども、国立銀行の金を私企業にしばしば貸すことは難しく、悩み
多かった。以下は栄一と平野とのやりとりである。

栄一は言う「私が石川島造船所に関係し始めたそもそもの動機は毛頭、これを利
殖の一事業としようとした訳でなく、造船業が海国日本の進展の上から見て、一
日も間を置くわけにいかず、今にしてこれが協力せねば、将来悔いることもあろ
と考えたからである。
私にかくの如き教えを抱かせ、言わば私の眼をして造船業の重要性を開かせたの
は平野富ニ君であった。私が平野君と初めて相知ったのは誰かの紹介で、何でも
明治11、12年頃のことであった。」と思う。
続いて、「当時はわが国の海運業は一向に振るわず、機械工業も、漸くその緒に
就いたばかりであった。平野造船所の経営は難儀であったらしく、幸い私が第一
銀行をやっていたので、私の処へ来さえすれば、直ちに金が付くと思ったものか、
しばしば、私を訪ねて借金を申し込んだ。しかし、平野はただ金を貸せと言うの
でなく、その都度、造船業の必要性を力説して止まず、その熱心さに感ずるもの
があった。」
このように、栄一は平野の猪突猛進の性向をたしなめつつも、彼の意見が適切で
あり、海国日本にとって造船業が最も重要な産業であることを理解していた。従
って、彼を叱るものの、融資を断れなかった。しかし、平野造船所には融資に見
合う資産がない。第一銀行は商業銀行なので、この当時、先行き不明の造船業に
は金を貸せない。また当時、日本では近代産業が緒に就いたばかりである。栄一
はフランスのツーロン港の大造船所を見学しており、これを思い出していた。栄
一とて、貸し倒れの危険が高い事業に過度の貸し付けはできない。と言って放
っておけない。ジレンマである。
そして平野を叱りつける。「何ら確固とした返済方針も立っていないのにやり損
ったらどうするつもりだ。」そう言いつつも内心は平野の冒険心が国家のために
貴重なものと理解していた。
1883年(明治17、18年):栄一は宇和島の西園寺公成、佐賀鍋島家・深川亭蔵氏
と3名で10万円を調達し、平野に貸した。この当時、10万円は大金である。平野
は早速、ドックを改善し、工場を増設した。そして、軍艦「鳥海」を受注した。
しかし、この工事はなお、資金が不足し、他の出資者を募り、20万円の資金で匿
名組合を作るため、出資を募集した。栄一は後に語る「当時の造船業は損得ずく
では手の出せぬ事業で、先に融通した10万円に対しても、8%の利子の利子を
払ったのはただ1期だけであった。それほど困難な事業であったが、ともかくも
続けていった平野君には多分に感心な所があったのである。」


ページトップへ