ABCD学院 メールマガジン 2017年5月号

Communication: Information
英語は使わなくちゃ!

第4章 実事業の創立
1.概要
 設立から援助した会社は約500社に昇る。紙面の関係上、直接、経営をした
企業を下記に分け紹介する。
・資本主義化に関わるインフラの企業:
金融業:銀行、各種取引所(含む証券取引所)
保険業:火災、生命保険
陸・海運業:鉄道、地下鉄、汽船、築港
 土木、水道、電気、燃料:ガス、石炭、石油
・外国製品に替わる国産製品の製造会社:
 軽工業:綿紡績、絹織物、毛織物
 重工業用原材料:製鉄、鉄鋼
 化学品:肥料、薬品
 重工業:造船、汽車製造
・消費物品(含む食品):ビール、製糖、乳製品
・流通,サービス業:商社、ホテル、不動産、広告、デパート、通信、新聞、印
 刷
上記の内、直接関わった代表的な会社を紹介する。
栄一は一企業の経営者としては必ずしも卓越した経営者とは言えないが、日本の
産業全体の総合プレンナーであり、オーガナイザーと言える。

1873年(明治6年):栄一は大蔵省を退職する。
その後、前回までに述べた様に、軽工業を立ち上げる。

今月は先月に続いて今回も重工業(造船業)について述べます。

2.3 重工業(造船業)の育成
(3) 平野の死 と その後
 1886年(明治20年)8月20日:同船の進水式を迎え、皇太子殿下(後の大正天
皇)の行幸の基に空前の光栄を受けた。
1891年(明治25年)平野は演説中に倒れ、3日後、脳卒中を発して46歳で死す。
近代日本の造船・機械工業に夢を託し、努力した功績は大きい。
1892年(明治26年):商法改正となり、石川島造船所は帝国ホテルで第4回株主
総会を開き、社名を(株)石川島造船所と改称し、取締役会長に渋沢を選出した。
社長はしばらく置かずにいた。

2.3.3 明治中期の造船業と日清戦争の影響
明治初期:我が国の造船業は製鉄や鉄鋼業と同様、発展途上にあり、発展する余
地を大きく残していた。即ち、一貫製鉄技術は未だ確立されていず、素材の鉄や
鋼材は大部分輸入されていた。一方、素材技術や機械技術、艤装装技術の発展は
著しい。船体材料は鉄から鋼に移りつつあり、また蒸気タービンも既に、実用化
されつつあった。
明治20年代(中期):基礎技術と新しく導入される技術との差が大きく、中々埋
まらなかった。そして、我が国の造船業が本格的に鋼船時代となるのは23年代で、
長崎の三菱造船所の「筑後川丸」が最初であった。しかし、大量の鋼材は国産は
望みなく、」また船舶そのものを外国から輸入する状況は変わらなかった。
この年代、国内新造船は30隻、4291トンであり、輸入船は10隻8324トンであった。
明治28年代:国内造船は47隻5553トン、輸入船は35隻4万3114トンであった。
即ち、トン数では外国船は8倍であった。格差はますます広がる傾向にあった。
1894年~95年(明治27年~):このような状況下で、日清戦争が開始となった。
ここに、兵員や軍需物資の輸送用船舶が大量に必要になった。かと言って、この
時期、海外からの輸入はままならず、国産の新造船建造の建造能力を増強するこ
とが望まれた。
東京石川島造船所はこの戦争中、海軍から木製の小型蒸気船を8隻、陸軍から鉄
製の船2隻の急造する命令を受けた。
また、戦争末期には、工場や造船材料一式を海軍が使用することとなり、増産に
励んだ。
1895年(明治28年)3月:この戦争に勝利し、清国との間に講和条約・下関条約
を締結し、その後は平常に戻った。
この条約で、日本は3億6千万円の賠償金を得、政府はこの賠償金で、重工業の整
備に充てることとした。特に、この資金は主に、製鉄業の確立に注がれた。
1897年~1901年(明治30年~34):九州八幡に(この地域は石炭生産地に近く、
鉄鋼の供給に便利であるのと、鉄鉱石は原料を搬入するに便利な地として)一貫
製鉄のかんえい工場を建設することとし、開始した。
1901年:そして、工場は完成し、操業を開始した。
造船については、海軍は特に、軍艦の建造に力を入れ、第2次拡張計画を立て、
下記66艦隊の建造を推進した。下記である。
・装甲戦艦:6隻、 ・装甲巡洋艦:6隻
ただし、この時期は、いずれも主力艦は外国に発注され、同時に、海軍は呉、佐
世保に造艦施設を拡充した。

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