ABCD学院 メールマガジン 2017年7月号

Communication: Information
英語は使わなくちゃ!

今月から「教育事業」についてのべています。一橋大学の前身を立ち上げていきます。

3.教育事業
3.1 実業教育のシステム作り
栄一は生涯の間に教育事業に大きな足跡を残した。これは後に詳しく述べるが、幼少期、商人の子であるが故の代官から受けた商人への蔑視がある。当時は士農工商の階級制度のためであるが、後に、フランスへ行く機会を与えられた折、当地で見た、商人が軍人(サムライ)と対等に話している様子を見、驚くと同時に、近代日本も、この様でなくてはならないと考えた。これを実現するには社会を変革せねばならない。 そのためには当時の日本人の精神構造を変ねばならないと考え、「これには教育しかない」と考えたのである。
即ち、栄一が全生涯を通じて打倒せねばならないと考えたのは下記である。

    武士の流れを組む「官の金銭蔑視と民業軽視」
    その裏返しとして「民の没・理念」と「没・倫理」

明治になって彼が体験した「民への蔑視」の典型的例として下記がある。栄一が東京瓦斯局の経営に携わった折、瓦斯局の技師をフランス人から日本人(東京帝大の応用化学科卒)の工学士に替えようとした時、栄一が「瓦斯局の官営を民営にする」と述べたら、工学士は「それなら自分は辞退する」と言った。この当時、この男が特別なのでなく、多くの人々が商業は軽視(蔑視)されていたと考えたからである。そして、さらに熟慮し、「これは何所から来る(起因する)のか?詰まる所、『それは教育である』」と行きついた。
何故なら、当時、教養ある人は漢籍のある人であると。即ち、四書五経を学び、「修身、斉家、治国、平天下」できる人である。これにより世に立たねばならないとされた。即ち、この様に人の上に立つ人のための「政治的教育」はあったが、農、工、商に関する教育は皆無であったからである。  

では何故・栄一は「民の蔑視を克服できたのか?」

答えは、栄一は深谷の経営農民と言う「民」の人であったが、幼少の頃より、漢籍を学んでいたことに起因する。自分はサムライに引けを取らないと自負を持っていた。(剣道でも千葉道場で修行し、そこらの侍に負けないと。)しかも、後に、彼はフランスでサン・シモン主義経済と出会い、民主主義の体験をして来た。フランスでの体験は金銭蔑視どころか金銭と商工業を手段とした社会改革のための「商業および工業」であった。また万国博覧会は商業、工業の成果を実例として民衆に示す教育でもあったと考えた。即ち、商業のあるべき姿を現実に見ることができたからである。栄一は言う「欧州における実業の見聞からどうしても新しい商業教育(商業地理も含め、商業、科学、法政、経済も知らねばならぬ)の必要を痛感し、今後、世に立つには(外国人と肩を並べるには)これらが無くてはならない。」と。

ところが、突然、チャンスが到来する。東京府知事の大久保(かつて慶喜の家来で、上司でもある)から以下のように、ビジネス・スクールの提案が行われた。

1874年(明治7年):森有礼が在米中、アメリカでは実業教育が盛んなのを見て、「日本でも同様のスクールを開設してはどうか」と東京府知事に提案してきた。大久保知事はこれに賛成であるが、府には金がない、そこで、彼は栄一が東京会議所の会頭として保管している共有金に目を付け、相談した。栄一は直ちに同意し、共有金から8千円を出した。これに森は力を得て、自前で1万円を寄付した。

1875年(明治8年):京橋に「商法講習所」を開設し、教師は実学教育の経験あるホイットニー(米人)を雇い30人足らずの生徒に講義させた。


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