ABCD学院 メールマガジン 2017年8月号

Communication: Information
英語は使わなくちゃ!

先月から「教育事業」についてのべています。今月は2回目で。一橋大学の前身
を立ち上げていきます。

3.教育事業
3.2「商法講習所」が順調に発展して行けば栄一は苦労しなかったが、
そうはいかなかった。
経営者の森は特命全権大使として清国に赴任し、学校の世話をする者がいなくな
った。
そこで持ちかけられたのが渋沢であった。彼は次の様に思案し、東京会議所で引
き受けることとした。「官立にするのが最適であるが、それはできない。ならば、
府立学校としたいが、金がない。」であれば、東京会議所が管理を引き受ける他
なしとして、会頭の栄一が管理責任者となった。
1876年(明治9年):突如、府の方針が変わり、「商法講習所」は府庁が管理す
ることとなった。京橋に校舎を新築し、旧幕臣の矢野二郎が所長となり、授業内
容を改善して、新たに開校することとなった。とは言え、直接の経営は東京会議
所が引き受けた。栄一はカリキュラムの編成等に助言していた。
1879年(明治12年):経費を府に5千円を要求したが、府会の議員に理解者が少
なく、50%削減を議決した。これでは講習所の維持は不可能となった。
しかし、栄一はこれにひるまず、実業教育を維持すべく、有志に働きかけ寄付を
募り、漸く存続することができた。
1881年(明治14年):さらなる、災難が起る。府会は「商法講習所を不要」とし
て予算を否決した。そしてあろうことか廃校を決議した。しかし、栄一は諦めな
かった。
「何としてもこれを存続させねばならぬ。」と考え、東奔西走して、存続の必要
性を説き、要所の大官に会って意見を開陳し、農商務省に対しては補助金下付の
建議をした。この結果、農商務省の当局者も理解を示し、1万円の補助金を与え
ることとなった。
これで、何とか廃校を免れ、授業を存続できた。
しかし、これは一時的な措置なので、将来を考え、農商務省の官下で官立学校と
する様に働きかけたが、当局の返事は「府会が『その必要なし』として廃校を決
議したものを、一方で、官立にする訳に行かぬ」と述べた。ただし、「民間で存
続運動が盛り上がり、具体的方法が講じられれば、政府としても再考の余地はあ
る」とした。
その後、栄一は先頭に立って、市内の富豪有志を説き、学校の基本金寄付を募り
3万円近くを集めることができた。これには府知事も協力してくれた。

これ以降、商業教育は順調に進められた。
1884年(明治17年):農商務省の直轄として、経営することとなった。名称も「
東京商業学校」と改称した。
1885年(明治18年)栄一の努力は更に報われることとなった。商法講習所の創始
者・森有礼が文部大臣となり、東京商業学校が文部省の官下となり、神田・一橋
に新校舎が建設され、経費も大幅増額となって、一新された名称も東京高等商業
学校となった。

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